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2024年09月30日

【正倉院 聞き耳頭巾(ききみみ ずきん)】#3

この連載コラムのタイトルは、正倉院文書を初めとする古代の文書をじっくり眺め、そこに潜む声を聞きたい、というところからの命名であった。今回は、今秋の正倉院展出陳品から、天平2年度(730)の大倭国正税帳(やまとのくにしょうぜいちょう)をとりあげる。

振り返って現役時代。業務として正倉院文書の写真版書籍の出版に取り組んでいた頃は、今みたいな悠長なことは言っていられなかった。何ひとつ見逃すまい。自分の眼に少しだけ自信を持っていた頃に向かい合った文書である。

奈良時代、全国の基本的な行政区画はどうなっていたか。

政治的な中心点である平城京。その周囲にヤマト王権以来の伝統的拠点である畿内諸国、その外周に畿外の諸国。イメージとしては、この「国」が基本単位となって放射状に連なり、いつしか五畿七道諸国という言い方も定着した。規模としては、現在の都道府県に相当する。当時の人々がより身近な領域として感じていたはずの「郡」は、「国」の下の構成単位であった。

さて大和国である。この用字に変わる前には、「大倭国」の表記が標準であり(一時期は「大養徳国」と改称)、大倭国正税帳の作成された天平2年もこの期間に含まれる。

正税帳というのは、国単位で作成される会計帳簿で、当時の経済の基本である稲の動きを、収入から支出まで細大漏らさず記したもの。毎年作成して中央政府に報告を上げることになっていた。

実際の帳簿面(づら)に見える稲穀の数量は、律儀と言おうか瑣末(さまつ)と言おうか、徹底した数合わせの論理で一貫している。大きい方から「斛(こく)・斗・升・合・勺・撮」と算(かぞ)える単位の果ては、耳かき1杯にも満たない。また、書き出しや中間部など欠失した部分が多いため、大倭一国の全容をうかがうのは難しく、そこから、いろいろな経済指標を読み取る能力は、私にはない。

それでも、平城京を擁する畿内筆頭の大国というからには、さぞかし羽振りのよい状況がうかがわれるかと思いきや、中身で目立つのは、国内総計39社の神社(具体的な神社名も所在郡ごとに記される)に与えられた神戸(じんこ)の記載である。

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大倭国正税帳 正集〈中倉15〉第10巻第4~5紙

ここにあげたのは、平群(へぐり)郡の冒頭。大倭国正税帳を紹介する際に、私がこの部分を選ぶのは、往馬(生駒)・龍田の、関西では有名な2社の名が見えることがある。現在の行政区分では「生駒郡平群町」といい、生駒のなかに平群が包摂されている。

ところで、私たちの先生筋にあたる世代は、モノグラフ的に、古代氏族の一つひとつを取り上げた論考が多い。先師笹山晴生(ささやまはるお)にも、「たたみこも平群の山」と題して、古代氏族である平群氏を取り上げた論文がある。歴史的な考察を巡らせれば、先の逆転現象の説明も可能ではあるが、古事記・日本書紀の伝承をぼんやりと眺めていると、平群氏は、少し早く歴史の舞台に登場しすぎたような印象を受ける。

奈良盆地は、生駒山系を挟んで大阪平野から見れば約30メートルの高低差があるという。実際に、西の大阪側からの登りは急峻(きゅうしゅん)であり、奈良側は比較的緩やかに降る。平群付近では、褶曲(しゅうきょく)によりたたみ込まれたような山襞(やまひだ)が重なり、古(いにしえ)の枕詞が実景として感じられる。この平群に住まいを定めてから随分時が経ったが、折々にこの地を称揚してみるのだ。

(元・宮内庁正倉院事務所長 杉本一樹)