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【正倉院 聞き耳頭巾(ききみみ ずきん)】#4
さて、前回に続いて、大倭国正税帳(やまとのくにしょうぜいちょう)にもう一度登場願おう。「たたみこも平群の山」からの連想ではないが、今回は「たたみ込まれた皺(しわ)」の話である。
律令国家の重要文書としての立場を考えれば、正税帳の顔つきが謹厳でない訳がない。しかし、実物の表情をじっくり眺めた貴重な時間は、いくつかの発見をもたらしてくれた。同じ正税帳から、もう1枚の写真を挙げよう。
「城下(しきのしも)郡」の下方にある斜めのシワに注目されたい。
この郡名は「磯城下郡」を2文字に節略した表現で、奈良盆地の中央部、現在の川西・三宅・田原本あたり。その前は、大和三山として有名な、畝尾(うねび)(畝傍)・耳梨(みみなし)(耳成)山口社で終わる十市(とほち)郡の記載である。
かつて、(失礼を承知で)このシワの中を覗(のぞ)いて観察したことがある。正税帳の全面には、行や書き出しの高さを揃えるための縦横の罫線が淡墨で引かれている。これを「縦横の墨界」と呼ぶのだが、シワと界線と、どちらが先についたかを確かめたかったのだ。結果は、シワを乗り越えて墨線が引かれており、「シワが先」。
正倉院文書として伝来した戸籍・計帳・正税帳。展覧会の出陳品としても、その希少性から注目を集める。これらの律令制の根幹をなす重要文書は、巻物のかたちで作成されるのが普通である。盛り込まれる内容から言っても、必要な紙は、時に数十にのぼることもあっただろう。となれば、その形は巻子(かんす)1択であった。
巻子には巻子の作り方がある。文字を書くまでの下ごしらえとして、継(けい)・打(だ)・界(かい)の3工程を踏む。つまり、紙を長く貼り継ぎ、巻いた状態で叩き締めて紙面を平滑にし、その後に界線が引かれる、という手順である。すると「界線以前にすでに存在したシワ」、はこれまで不明なところの多かった「打」の実態に迫る貴重な証拠となるではないか。
マニアックな視点から余勢を駆っていえば、作成時のままの貼継を保ったまま、9紙連続して末尾に至る様子は圧巻である(最長記録!)。この間には継目六つを重ねて、横墨界のアタリ(刀子〈とうす〉の刃先で付けた目印)を1回で打つ、という巻子作成の奥義をうかがわせる痕跡も残る。
実物の力は、細部に引き込むだけでなく、時空を超えた夢想へも誘う。
律令の諸規定からもうかがわれるが、奈良時代の大和国は、一番良いところを京(左右京職)に持っていかれた、という感がある。せっかく天皇の居所を擁しているのに、優遇措置は他の畿内諸国と同じ。どこか宙ぶらりんな印象がある。ヤマト王権の頃には保持していたはずの「国」としての一体感を取り戻すには、長岡京への遷都(桓武天皇の延暦3年:784)に始まる次の時代を待たねばならなかったのかも知れない。
(元・宮内庁正倉院事務所長 杉本一樹)