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【正倉院 聞き耳頭巾(ききみみ ずきん)】#5
今年の第76回正倉院展で見ることができる正倉院文書を、先頃、本紙紙面でも紹介する機会があり、メインとして紹介したのが、今回の「安拝常麻呂解(あへのつねまろのげ)」である。「1289年前の盗難届」と解説し、日付など、いくつも辻褄(つじつま)の合わないところを、「読者への挑戦」としたが、以下は、あらためて考えた、私自身の解答例である。
まず、その姿を最初に紹介しよう。
天平7年(735)8月28日夜、常麻呂の家で盗難事件発生。これが始点であることは間違いない。彼は、大初位下(だいそいのげ)という位をもち、左大舎人寮(ひだりおおとねりりょう)に勤務する官人であった。おそらく翌日早々に、居住地(左京六条二坊)を管轄する左京職に被害状況を亡失品のリストを添えて申告。品物は、麻の朝服、葛布半臂(くずふのはんぴ)、帛褌(きぬのしたばかま)など合わせて13種。朝廷の公務で着用する正式の衣服に始まり、葛布の袖なし、絹製の内衣に始まり、被(ふとん)・帳(とばり)や箱、緑・青の裳(も=女性用スカート)、最後は酒器・弓・幌(ほろ)など、目についた家財を根こそぎやられた、という感じだったろうか。このとき並んで署名している中臣酒人宿祢久治良(なかとみさかひとのすくねくじら)は、ただの付き添いではなく、同じ戸の構成員と見たい。なくなったものを思い出すのは難事だ。一人では心許なかったのかも知れない。リストの中に「鈄一面」が見える。金属製のひしゃくのような道具で、底が平たく、注ぎ口・柄が付く。「さしなべ」と呼ばれ、酒を温めるのに使われたと思われる。この注記が実に詳しい。「注ぎ口の片方は何ともないが、右の方には疵(きず)がある、柄の差し込み(が緩いので)、藁(わら)を挾(はさ)まないといけない」。使い込んだ酒器によほど愛着があったことがうかがわれる(この「鈄」にフォーカスした論文が直木孝次郎氏にある)。
ちょっと脇道に逸(そ)れたが、左京職は同日中に、管下の東市司(ひがしいちのつかさ)にリストを回送して、盗品が市で売り捌(さば)かれるのを監視させた。以上が、事件発生直後の一連の動きだったと考えておく。
では、現在残っている「安拝常麻呂解」は、この時点で書かれたものがそのまま残ったのか。そうではない、と私は思う。
一番の理由は、解の日付、閏(うるう)11月5日だ。文面(前半11行)は丁寧に書かれており、どこかに作為があるようには見えない。日付どおりの時点で書かれたものだろう。一方で、3ヶ月以上が経過している。これは、「盗難届としては正式に受理する。けれど、左京職が即時対応したにもかかわらず、ここまでそれらしい品は見つからなかった(今後も気には留めておくが、そろそろ諦めては?)。この一件は、記録として保管する」という意味合いではなかろうか。
現存の常麻呂解の特徴は、これが左京職の公文として保管された、という点にある。閏11月の「正式受理」と同時に、8月発生時の動きをなぞるように、文書本体の余白に左京職内での処分(東市司への符)があらためて追記されていること(後半4行)、また、全体に「左京之印」が押されていること、すべては「記録として保管」を念頭においてのことだろう。
実際に、この安拝常麻呂解の左右には、同じ頃に左京職から東市司へ発した別の指示書が貼り継がれ、あとから、裏側に東大寺写経所の文書を書いている。この時の引っくり返し方が普通とは違い、表裏で天地の向きが逆、という現象が生じている。正集第四巻が展示されたケースの前で、ここに感じ入る人を見かけたら、かなりの通だと思ってよいだろう。
因(ちな)みに、符の中身はふつう「件の所盗物は、父、去る八月廿八日を以て申送すること前の如し」と読まれている。これは、正倉院文書の活字翻刻版である『大日本古文書』編年文書第1冊の釈読に従う、という意味である。しかし、なぜここに「父」が登場するのか。
写真を見ると、確かに「父」と読むのが最善手のように見えるが、唐突な感は拭いきれない。ここはちょっと迷いながら書いた「文」と読んではどうか。字形はぎりぎり許容範囲。「申送如前」との呼応も悪くない。
この活字本第1冊は、明治34年の刊行である。編年の名のとおり、正倉院文書のなかでも一番古いものが収録され、戸籍・計帳・正税帳といった律令制公文類が勢揃いするさまは壮観である。ただし、同冊の解題に拠れば、写本によって原稿を作成し、原本との対校(照合・訂正)が終わらないまま印刷に附したものもある、という。安拝常麻呂解の例でいえば、職符の数字訂正(「九」→[八])に全く触れていないのはこのためであろう。
正倉院文書は分量が多い、とはよく言われることであるが、それに見合った訂正方法の数々も含まれる。この例は、一番単純な(手を抜いた)やり方の「重ね書き」で、下の文字をそのままに、上から書いている。これだけなら、何も珍しくはないが、この箇所に押された朱印「左京之印」があるおかげで、唯一の稀少例となっている。すなわち、訂正前の文字「九」の段階で1回、訂正後の「八」にももう1回。そもそも印には内容の改竄(かいざん)を防ぐ意味があるから、この時点で厳密には「アウト」判定となるはずだが、それを気にする風もなく、2回目は45度傾けて、「これなら即時に対応したことが記録に残り、初回の印とも区別がつくだろう」とどこか自慢げである。
この文書は、遷都1300年(平成22年:2010)を含め、これまで正倉院展には過去3回登場している。選定の趣旨には「正倉院が伝えた平城京の暮らし」というテーマがあり、宝庫内で伝世した木簡や、工具類などをリストに加えたことが思い出される。今回は、観る人にどのような印象を残すのだろうか。
(元・宮内庁正倉院事務所長 杉本一樹)